ジャック・ロンドン


ジャック・ロンドン

ジャック・ロンドン(Jack London 本名:ジョン・グリフィス・チェイニー 1876年1月12日生)
 [アメリカ・作家]


 カリフォルニア州サンフランシスコ生まれ。父親はチェイニーというアイルランド系の占星術師で、母親はウェールズ系の農家の娘フローラ・ウェルマン。結婚は正式なものではなく、フローラが妊娠すると、チェイニーは出産に反対し、6月にフローラは自殺未遂。夏に離別する。9月、フローラは降霊術の会で知り合った実直な労働者ジョン・ロンドンと結婚。ジョンにはイライザとアイダという娘がいた。チェイニーとの間にできた男児ジョンは、父親と区別するためにジャックと改名。
1877年、一家はオークランドに移り住み、食料品店を始めるが失敗し、その後アラメダ、サンマテオ、リヴァモアの各地を転々とする。

 1881年、一家はサンフランシスコ郊外の農場に住み、野菜やトウモロコシを作る。貧しい生活が続く。1887年、ジャックは家計を助ける為に朝夕の新聞配達を始める。休刊日の週末は氷屋の配達係、ボウリング場のピン立てボーイとして働く。1889年、小学校は卒業するが、貧困の為に進学できず、缶詰工場で1日14〜18時間働く。1891年、サンフランシスコ湾で、仲間たちとカキ荒らしをはじめ、やがてジャックは「カキ泥棒の王子」と呼ばれるようになる。1893年、アザラシ漁船の乗組員として、小笠原諸島や横浜に上陸した。

 1894年3月25日、世界恐慌の最中、鉱業労働をしていた人民党員のジェイコブ・コクシーの失業対策として道路整備公共工事請願を目的とした「コクシーの軍隊」という、ワシントンのペンシルベニア大通りでのデモ行進に参加したが脱落。ホーボーをして各地を流浪、バッファローで浮浪罪で逮捕され30日労役につく。1896年、カリフォルニア大学バークレー校に入学するが一学期で中退。1897年、アラスカ・クロンダイクでのゴールド・ラッシュに加わるが、壊血病にかかり帰国。

 1901年、以前からカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』に共鳴していたため、アメリカ社会党に入る。1903年に出版された『野性の呼び声』によって、一躍流行作家となる。以後20年間に53冊の著書と200以上の短編小説を発表した。1904年、日露戦争の取材のために記者として来日した。撮影禁止区域で写真撮影しスパイ容疑で逮捕される。1905年、アメリカ社会党大会での日系アメリカ人移民差別反対意見について、自分は白人であると述べ封殺した。1906年社会主義思想による小説を書く。

 1916年11月21日、グレンエレンの自宅で死亡した。

ジャックは壊血病を含むいくつかの深刻な病気に苦しんでいたという。死の時に、彼は赤痢、アルコール依存症、および尿毒症に苦しんでおり、極度の痛みを和らげるためにモルヒネを服用していた。そのため情報の多くはモルヒネを飲み自殺したという推測がなされているが、実際は偶発的なモルヒネ過量によって悪化した尿毒症で死亡したことが原因とみられている。

 1916年11月22日死去(享年40)


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