アーヴィング・タルバーグ


アーヴィング・タルバーグ

アーヴィング・タルバーグ(Irving Thalberg 1899年5月30日生)
 [アメリカ・映画プロデューサー]


 ニューヨーク市ブルックリンで東欧ユダヤ人移民の両親のもとに生まれた。心臓が弱く、生涯を通じてほかの病気でも悩まされた。高校卒業後、ユニヴァーサル・ピクチャーズニューヨーク支社に採用され、ユニヴァーサル・スタジオ社の伝説の撮影所創業者カール・レムリの個人秘書として働いた。タルバーグは聡明で持続力があり、21歳までに同社のカリフォルニア州の生産拠点であるユニヴァーサル・シティの製作部門担当重役となった。

 映画『愚かなる妻』(1922年)の尺長をめぐるエリッヒ・フォン・シュトロハイム監督との闘争に粘り勝ちし、『ノートルダムの男』(ウォーレス・ワースリー監督、1923年)の製作におけるすべての側面をコントロールした。1924年、ユニヴァーサル社を去り、ルイス・B・メイヤー・プロダクションズ社に移籍し、その後またたく間にメトロ・ピクチャーズ社との合併をはかり、同社はメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社(MGM)となった。

 キング・ヴィダー監督の『ビッグ・パレード』(1925年)は、MGM社におけるタルバーグの最初の大勝利作品であった。1932年までに、深刻な心筋梗塞に苦しみながら、同撮影所の重要な作品の製作を統括し、観客の反応を測るスニーク・プレヴューを推進するとともにプリプロダクションの基礎を注意深く固めた。

 メトロ社に入社したとき、のちの1927年に結婚することになる女優ノーマ・シアラーと交際していた。タルバーグは専業主婦となることをノーマに望んだが、ノーマ自身は、よりよい役をもらうことに固執し、MGMが誇る1930年代最大のスターになっていった。夫妻は2児をもうけた。

 タルバーグの権力と成功に憤慨していたルイス・B・メイヤーは、病気を理由に、タルバーグをデヴィッド・O・セルズニック、ウォルター・ウェンジャーに交代させた。1933年にタルバーグが職場に復帰したが、撮影所の単位プロデューサーのひとりとしてであった。この冷遇にもかかわらず、MGM社における、もっとも評判が高い冒険作の開発を支援した。『グランド・ホテル』(監督エドマンド・グールディング、1932年)、『戦艦バウンティ号の叛乱』(監督フランク・ロイド、1935年)、『支那海』(監督テイ・ガーネット、1935年)、マルクス兄弟の『オペラは踊る』(監督サム・ウッド、1935年)、『桑港(サンフランシスコ)』(監督W・S・ヴァン・ダイク二世、1936年)、『ロミオとジュリエット』(監督ジョージ・キューカー、1936年)などである。

 1936年9月14日、カリフォルニア州サンタモニカで、肺炎によって生涯を閉じた。『マルクス一番乗り』(監督サム・ウッド、1937年)と『マリー・アントアネットの生涯』(監督W・S・ヴァン・ダイク二世、1938年)のプリプロダクションに従事している最中の死であった。

 1936年9月14日死去(享年37)


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