アレクサンダル1世


アレクサンダル1世

アレクサンダル1世(Alexander I 1888年12月16日生)
 [ユーゴスラビア・国王]


 モンテネグロの首都ツェティニェにペータル1世の次男として生まれ、1909年に兄のジョルジェが廃嫡されたため、新たな王太子となった。1921年、アレクサンダルはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の王位を継承し、セルビア人の専制体制を築いてクロアチア人の激しい反発を招いた。こうしたクロアチアの抵抗運動を抑えるため、アレクサンダル1世はさらにセルビア人の専制権力を強化した。

 1928年6月20日の1928年議会内暗殺事件をきっかけに、民族対立により議会が機能しなくなると、1929年1月6日にこの政治危機を理由としてクーデターを敢行、独裁政治を布き、10月3日に国名をユーゴスラビア王国と改めた。国土は直轄市であるベオグラードと民族分布ではなく分水嶺などの地形により境界を定めた9つの州に分割され、州名には民族名や地域名ではなくその州の主要河川から命名された。これによりクロアチア人はさらに体制への反感を強めた。

 1934年10月9日、マルセイユを訪問したアレクサンダル1世はフランス外相ルイ・バルトゥーと面会したが、この場に潜伏していた狙撃手ヴラド・チェルノセムスキーにより、バルトゥーと共に乗車していた車内で暗殺された。犯人のチェルノセムスキーはその場で警官に射殺されたが、バルトゥーは警官の流れ弾で重傷を負い、手当てが遅れたために命を落とした。この犯行の黒幕はクロアチアの民族主義団体ウスタシャであったとも、ヴァルダル・マケドニアのブルガリアへの帰属を求めるブルガリア・マケドニアの民族主義団体内部マケドニア革命組織のあったとも言われるが(あるいはその両方の関与という説も)、真相は現在でも不明である。

 アレクサンダル1世の死後、こうしたクロアチア人に対する過剰な抑圧政策は放棄され、クロアチア人の自治権をある程度認める方向へと転換していったが、それでも民族問題の解決には至らず、セルビア人とクロアチア人との対立が自由主義と全体主義との対立と複雑に絡み合って、第二次世界大戦へと突入していくことになった。

 1934年10月9日死去(享年45)


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